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第2話 水の中で見たもの

Author: 운디네J
last update publish date: 2026-10-22 07:31:32

「胸に刺青はありますか?」

レオンが注いでいたお茶が、カップの縁ぎりぎりで止まった。

ソユンはカップを受け取ろうとしていた手を下ろした。

「いえ、その。だから……」

「坊ちゃまに賭けを持ちかけられたのですか?」

「え?」

「前回は、私が耳に穴を開けているか調べてくるようにと。今回はいくらお賭けに?」

ソユンは食パンの耳ばかりをちぎった。

「賭けじゃありません」

レオンはそれ以上聞かず、ミルクの入った小さな容器を彼女のほうへ押した。

「雇用の際に提出した身元書類は、家令が保管しています。必要でしたら閲覧をお申し出ください」

相手を見つけて愛し合えという指示は、たった三行だったのに。最初の質問からこの有様だ。

「……失礼しました」

「今後、ほかの方にもお尋ねになるのでしたら、食事中はお避けになったほうがよろしいかと」

レオンがティーカップを見下ろした。

「熱い物を持っているかもしれませんので」

笑ってしまった。こんな状況でも笑えることが、少しだけ悔しかった。

ここで目を覚まして、六日目になった。

レオンの身元書類は、身体的特徴の欄が「特記事項なし」となっていた。三年前の記録だった。それから増えたものまで、改めて聞く勇気はなかった。

あのメッセージは二度と開かなかった。ソユンはスマートフォンを小さな袋に入れ、服の内側に下げた。

家族には、熱病のあとから記憶が曖昧だと話した。母はスープをすくってくれた。弟は自分がわからないのかとすねたあと、こっそり菓子を置いていった。

誰かの居場所を奪った気がした。慣れてしまうのも怖かった。

引き出しには、家族の名前を書いた紙の下に、こんなメモを隠していた。

〈帰る方法〉

一、印のある男を見つける。

二、互いに愛し合う。

三、鍵を手に入れる。

二行目に下線を引いた。本当に好きになったら、帰りたい気持ちはどうなるのだろう。

まずは見つけてから考えよう。

紙を折ってしまうとき、メイドが外出着を持って入ってきた。

皇室の水上音楽会に、エリンはすでに出席の返事を送っていた。ソユンは最初、行くのを断った。

けれど招待客の名簿を見て、気が変わった。

カシアン・ヴァルター。

北部の反乱を鎮圧した公爵。戦で負った傷を魔法で塞ぎ、鎖骨の下に黒い痕が残ったという描写があった。

正確な形は覚えていなかった。他人の恋愛を読むのに、傷痕の形まで暗記はしていない。

「濃い緑にします」

袋が目立ちにくい色を選んだ。

レオンが馬車の取っ手についた水気を拭いた。ソユンは彼が空けてくれた場所に手をつき、乗り込んだ。

「今日は少し、人に会ってみようと思います」

「おつらければ、いつでもお帰りになってかまいません」

「帰ってきたら?」

「遅めの夕食をご用意します」

彼女はしばらく彼を見た。

うまくやるようにとは言わなかった。失敗して帰ってきても、食卓に自分の席はある。そう言われた気がした。

「お肉がいいです」

「承知しました」

「スープじゃなくて、噛めるもの」

レオンの口元が少し上がった。

ソユンはそこでようやく、座席に背を預けた。

馬車が離宮に着いたころには、川向こうの街灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。

離宮の庭園から、川へせり出した演奏台まで木の橋が架かっていた。楽師たちが楽器を調律するあいだ、黒い流れが橋脚に絡んで過ぎていく。レオンは橋の入り口で、ほかの従者たちと待った。橋の向こうでは、騎士団長テオ・ランデンが警備に当たっていた。数日前に見舞いに来た、エリンの古い友人だ。

人々は景色よりも、互いを見ていた。

ソユンも例外ではなかった。

カシアン・ヴァルターはすぐに見つかった。黒い礼服の男には視線が集まるのに、近づく者は少なかった。

二度目にちらりと見たとき、男のほうが先に振り向いた。

「何かお探しですか」

「いいえ」

早すぎた。

カシアンは彼女が持つグラスに目を落とした。

「では、私を見ながら空のグラスに三度も口をつけようとしたのは、なぜでしょう」

ソユンはグラスを下ろした。底には葡萄の皮が一片、張りついているだけだった。

「人違いでした」

「誰と」

「知っている方と」

「今は別人だとおわかりに?」

彼が半歩近づいた。ソユンは後ずさりしないよう、足先に力を込めた。顔を上げると、黒い襟の隙間に古い火傷のような痕が少し見えた。

正確な形を確かめようと、視線が下がった。

「エリン嬢」

横から誰かがグラスを取り替えてくれた。

「そちらのグラスは私に。公爵の顔も、そこまで喉が渇くような顔ではないでしょうに」

笑いを含んだ声だった。金髪の男が新しいグラスを差し出していた。ソユンは受け取りかけ、周囲の人々が頭を下げるのを見て手を止めた。

皇太子アドリアンだった。

「挨拶は結構です。病み上がりの方を引き止めて申し訳ないのですが、お話があります」

彼は微笑んだ。

「先月いただいたお手紙のことです。そろそろお返事をしても?」

読んだことのない手紙だった。

答えを探しているうちに、公爵が口を挟んだ。

「回復したばかりの方をつかまえて、お仕事ですか」

「彼女の用件が仕事だと、誰が言いました?」

二人の男が互いを見た。ソユンはその隙に、新しいグラスをテーブルに置いた。

エリンは、この人たちとどんな関係だったのだろう。

次の曲を告げる鐘が鳴った。アドリアンは、またあとで話そうと言って離れた。カシアンの視線は、もう少し長く残った。

ソユンは人の間を抜け出した。

「欄干から離れてください」

足元から声がした。

白い髪の男が橋脚のそばにしゃがんでいた。指で宙に何かを描くと、水の下に青い線が現れ、消えた。

「人に言ってるんですか?」

「あなたが人なら」

男が顔を上げた。その目はソユンの顔ではなく、胸の下に下げた袋を向いていた。

「その中の物は、どこで手に入れたのですか?」

彼女の手が袋を覆った。

男は立ち上がった。襟元には銀色の塔をかたどったピンがついていた。

魔塔主イセル。

「触るとは言っていません」

彼は付け加えた。

「水に近づけないでください。その物のせいなのか、この橋のせいなのか、まだわからないので」

「何がですか?」

「響いている音です」

ソユンには何も聞こえなかった。

そのとき、橋の反対側から人々が押し寄せてきた。演奏台に近い場所を取ろうとする一団だった。イセルが振り向き、ソユンは横へよけた。

かかとがドレスの裏地を踏んだ。

体が傾いた。欄干につかまったが、手のひらの下で木が外側へ折れ曲がった。欄干は隣の区画まで剥がれ落ちた。

誰かが名前を呼んだ。

冷たかった。

水はうなじから入り込んできた。口を閉じるより先に、鼻と舌を満たした。上へ腕を伸ばしたが、スカートが足に絡んだ。明かりが遠ざかっていった。

袋の紐が首を引いた。

彼女はまず、それを握りしめた。

離しちゃだめだ。

これをなくしたら。

水面が大きく割れた。泡の向こうから黒い影が降りてきた。手が彼女の手首をつかんだ。絶対に離すまいとする力に、指の関節が痛んだ。

ソユンは彼のほうへ身を寄せた。服をつかもうとした手が、開いた襟の中へ滑り込んだ。

その隙間から、かすかな赤い光が漏れていた。揺れる水に、痕の形が歪んだ。丸い輪の下から細い線が伸び、途中で折れ曲がっていた。

鍵……?

顔を見ようと頭を上げた。髪が目を覆った。息がしたかった。せめて名前を聞かなければならないのに、口を開けられなかった。

その腕が、彼女をさらに強く抱き寄せた。

激しい流れに体が折れ曲がっても、離してくれなかった。ソユンは男の服を握りしめた。つかんでいた袋の紐が指の間から抜けた。それでも、もう探そうとはしなかった。

この人は、私を離さない。そんな気がした。

何も見えなくなったあとも、その腕の力は感じていた。

背中に硬いものが当たった。誰かが体を横に向けた。吐き出して、という声に、ソユンは息の代わりに水を吐いた。目を開けたとき、真っ先に見えたのは濡れた手袋だった。

縫い目が裂けていた。

「咳をしてください。ゆっくり」

誰かが背中を支えていた。喉の奥がひりついた。涙で、目の前の人々の顔が重なって見えた。

「テオ卿、少し離れてください。呼吸は戻りました」

イセルが膝に手をついて立ち上がった。袖から水が滴っていた。騎士団長テオ・ランデンはソユンの背から手を離したが、その場を動かなかった。

水際へ人々が引き上げられていた。崩れた欄干の前で互いをつかもうとして、何人も流されたらしかった。

カシアンは濡れた髪をかき上げていた。アドリアンの腰には、誰かが急いで巻いた毛布があった。

レオンが彼女の前に膝をついた。ベストはなく、シャツが体に張りついていた。彼はソユンの首に絡んだ袋の紐を緩めてくれた。

彼女は五人を順に見た。

全員、濡れていた。

咳がこみ上げた。誰かが医者を、別の誰かが馬車を呼んだ。

ソユンは毛布の中で袋に触れた。スマートフォンは無事だった。

水の中で見た形を思い出した。

襟の下の赤い痕。ぼんやりしていた。死にかけた人間が、いちばん見つけたいものを見ただけかもしれなかった。

でも、自分を包んでいた腕は錯覚ではなかった。

誰が潜り、誰が岸から手を伸ばしたのか。濡れた服では見分けがつかなかった。

この中の誰かは知っているはずだ。自分が彼につかまろうと、スマートフォンさえ手放したことを。

もしかしたら、その人が帰る方法を握っているのかもしれない。

ソユンは自分を起こそうとする手をつかんだ。誰の手か確かめるより先に、声が漏れた。

「私を……水の中で抱きしめてくれたのは、どなたですか?」

返事を待ちながら、つかんだ手に力を込めた。水の中で見逃した顔が、何度も目の前にちらついた。

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